GESHAどん/シトラスの霧

雨の日の午後。またしても定例ミーティングにひしがれたおれは「すみません、帰ります、つらいです」と峯脇さんと正直に申告すると、峯脇さんが「またボンゴレへ連れていってくれよ」と、あえて別の角度から話を振ることでねぎらってくれるような調子があったので、おれは午前中で早退した。

11時50分にオフィスのエントランスから勢いよく外へ飛び出して、昼休み前の静謐な街の空気を全身に浴びる。「今日はハーフ・デイ・オフだな!」

丹穂町まで急な坂道を降りて、軽く口笛を吹きながらしばらくあたりをうろついていると、もう疲労が襲いかかってくるのを感じた。おれはどうも弱い。

〈菰田コーヒー〉で休むことにした。自家焙煎豆を使用したここのコーヒーは美味い。浅煎りと深煎りから選べるのだが、おれはずっしりとした大地を感じさせるロバストマンデリンあたりが好きだ。そっと唇を浸すように飲むよりも(おれに言わせればそんなのはまるでGentleではない)、スモーキーで重厚な香りをまとったロバストマンデリンをゴクァ、ゴクァ、といった調子で、喉を鳴らしながら飲むのが好きだ。

「きのう焙煎したGESHAありますよ」
GESHAがあった。滅多に店頭に並ぶことはない豆、せっかくだからな、と思って注文した。

前に飲んだ時、その弾けるような柑橘感にめまいすら覚えたものだった。大きめのトレイくらいのサイズの、すげえ小さな丸型の机の上へ、慎重な手つきでにぶい灰色の輝きを放つMacbookを広げる。そして自分とMacbookの目の前に、コーヒーカップのためのわずかなスペースを確保する。

おれはカフェに入ったときはいつでも、店内の机を倒したり、あるいは何か落としたりしないように細心の注意を払っている。じっさいに去年の夏、ここでうっかり手を滑らせてアイスラテを床一面にぶちまけてしまったのだ、、向かいの席に座っていたお客さんには幸い、わずかにスラックスのあたりへ飛沫を飛ばしてしまっただけで済んだが軽めに舌打ちされてしまったのは仕方がないだろうあれ以来職場でもコーヒーを飲むたびにこぼしてしまうリスクに怯えて一層仕事が手につかなくなってしまったほんのわずかな動きによるブレによっておれがか細く築いてきた生活も崩れ落ちてしまうと思うととてもやれないーー

とにかくおれはコーヒーが運ばれてくるのを待った。

5分後、白と緑が細やかに編み込まれた格子柄のカップに注がれたGESHAは淡い褐色に輝いていた。おれはMacbookを少しだけ奥のほうへずらして、植物のようにほっそりとカーヴした柄を掴んで、いつもの〈ゴクァ!〉をやるべく、カップを勢いよく口元へと運んだ。

一気に押し寄せてくる圧倒的な果実感に「ああこれだなあ、これだなあ」と、しみじみと繰り返し、バカのように呆けた顔をして、テーブルの周りに漂う甘い蒸気を吸い込んだ。

店の外から流れてくる空気にはもう夕どきの匂いが混ざっていた。

シルキーラテに蘇生するおれ

Largeサイズの紙カップには、店のロゴと合わせて、まぶしい緑の芝生の上へ寝そべっている数匹のアニマル(希望にあふれる変な鳥、あめ色のライオン、硬そうな象)が描かれている。

おれは紙カップを右手でにぎって、飲み口を作るために軽くたわませて、舌を火傷しそうなほど熱いラテを、グッ、と流し込むのが何より好きだ。

褐色のコーヒー豆の優しいコク。ほのかな甘み。そして、鼻の辺りを通過して、正午の青い空へススィィィィィィ、ススィィィィィィと抜けていく瞬間に広がる香ばしさ。それらがラテの表面に浮かんだ細やかな泡と混ざって無数のテクスチャーを生み出すのだが、不思議なのは毎日変わる泡の具合。

気温や天候の影響なのか、それかバリスタさんの腕前だろうか?バリスタ…?おれが毎日通っているこの、ぱっとしない丘の上の銀杏の木の下にあるカフェには腕の良いバリスタさんが5人もいる。

バリスタさんがにぶい鋼の光をたたえたMade In Italy No Doinaka No Yabai Factoryのエスプレッソマシンを駆使して、絶妙な加減で空気の粒を含ませながら圧縮、急速に加熱したミルクはすごくなめらかでシルキー、解像度の高いハイファイな味わいだ。

一杯のラテがランチタイムのおれを蘇生する。最近入った中年の男性バイトが不器用に、どしゃどしゃと投げやりに沸騰させたラテは現場の砂利みたいになっている、が、これはこれでなんだかやさぐれた気分を煽られて結局ランチタイムのおれを蘇生する。

店を出て、空を見上げると雲が見えた。胸一杯に丘の空気を吸い込むとまぶたにひんやりとさわやかだ。さて、午後のミーティングも頑張るゾォォォ(*・∀・)

帰りたい。このままメトロで帰宅したい。帰ってシルキーな布団に横たわって、ずっと派手な色の菓子をむさぼり食っていたい。

でも今日は木曜日。あと一日やり過ごせばまぶしいバカ豚麺がおれを待っている。だから午後のミーティングも頑張るゾォォォ(*・∀・)!!

店の方を振り返ると、バリスタさんが操るエスプレッソマシンが明るい灰色の蒸気をものすごい勢いで吹きあがらせていた。

グラノーラ

昨日の帰り道に、駅ビルの地下にある輸入食品屋で買ったドライフルーツのアソートパック。見るからに上質な艶のある南アフリカ産の杏、洋梨、青森産の大きな桃の詰め合わせパックに、流れるような金色のフォントで〈Premium Fruit Pack〉と書いてある。

これが本当に美味かったのだった。帰宅して、リヴィングで一粒だけ食べるつもりがついひと息にむさぼり食ってしまった。杏のさわやかな酸味、絹のようにしっとりとした洋梨からにじみだす甘さ、桃はもうそれ自体がフルーツの味わい全てをそのまま表しているような暴力的な美味さで、思わず「これがPremiumかあ!!フルーツグラノーラにしてえ!!」と叫んでしまい、一切の虚飾のない素直な気持ちが心の奥底から飛び上がってきたのだった。

たしかに輸入食品屋を近所のセブンみたいに利用するライフスタイルが世間で賛美されるのも無理はないなあ。これは素晴らしい。たとえばタワマンの高層階の住人なんかが仕事帰りにワインなんかと一緒にごっそりと買っていくのだろうか?あるいはドライフルーツに全振りする月収5万の崩れかかった男?捨て身のパティシエ?

普段のフルーツグラノーラのフルーツが全てこれらのうるわしいフルーツに変わるとしたら、それはすごく明瞭な、手に取れる質量と輝きを持ったアップグレードだ。毎朝このアソートパックをグラノーラにして出勤前にだるそうにむさぼり喰うことができれば、生活の質が上がる、というより生活そのものがまぶしい物語になりそうだ。

うん、なるほどな、そうだな!そして毎日〈Premium Fruit Pack〉を買い込む常連になったら、あの妙にハキハキした店員さんとも顔なじみだな!

ってか自分で作れば良いのか。今どきドライフルーツを作る技術はどこでも学べる。まずは郊外へ出て桃を仕入れに行こう。そして庭に並べて干しておこう。

田辺氏とランチ

今日もボンゴレ。資産運用チームの田辺氏(47)とランチするのは久しぶりだった。今日もアニマル柄のポロシャツにチノパンの田辺氏。「よければどうですか?なんか、麺とか?どうでしょう?」誘ってくれたのは田辺氏からだった。

四人がけのソファ席には、ちょうど廊下と席を仕切る棚のところに、クラシックな街灯のような風情のあるライトが光っている、そのぼんやりとしたオレンジ色の光を含んで揺らめくボンゴレの湯気。

いい匂いがする。冷凍シーフードに凝縮された魚介のエキスの匂いだ。ボンゴレの表面に回しかけられたソースは「これ沸騰してねぇ…?」と田辺氏が真顔でおれに尋ねてしまうほど熱々にたぎっている。

つまり〈うっかり煮詰めたオーケストラ〉これが今日のボンゴレ。おれは朝にウイダーをひと啜りしてからここまで、つまり夕方まで何一つ食べずに、ボンゴレのことだけを考えて一日を過ごして来たのだからなあ。気だるいミーティングの時も。鮭松からにがい説教を浴びせられている時も。

ここのガスコンロはおかしい。火力の調整ができないためか、具材はだいたい全部焦げているのだが、謎に滲み出してくるものがある。玉ねぎの甘み。ピーマンの苦味。人参の繊維からにじみ出すコク。細かいかすり傷がいくつもついた金属フォークをドルルルルルルといった具合に回転させて麺と一緒に巻き込んだ具材の、そして沸騰するソースの、店内にさす昼の光のひと粒ひと粒のグルーヴが織りなす複雑な香りとさまざまな味わい。

「うめえ( ;゚Д゚)」

うっかり声を漏らしてしまったが、店内にはおれと田辺氏しかいなかったので問題なかった。それどころかあたりには自然と祝祭的なムードが漂い、ボンゴレから立ち込める濃い霧の中に泳ぎ始めた午後の始業前のもの悲しさを振り切って30秒でむさぼり食いました。

 

(´Д`)寝かしグセ出ました(´Д`)

年始にうっかりクレジットカードの暗証番号を2度続けて押し間違える失態をやらかしてしまい、カードが使えなくなってしまった。近所のコンビニの入り口近くにあった壊れかかったATMのぐずぐずのジュレみたいなボタンに手こずって、あれ?押せたかな?、という確信が持てず”6”のボタンを焦燥感に駆られて何度も連打してしまった。

以来メインバンクが使えなくなってしまい非常に焦った(不穏な点滅とともにATMから拒絶される虹色のカード)。やるべきことははっきりしている。通帳と印鑑を持って最寄りの支店へ行って「お金を下ろしたいんですけど」と言う、それで当面の生活費を確保する(貯金は十分にある)、余裕があれば「カードの再発行をしたいんですけど」と言う、これだけだ。

隣駅の支店までドアドアで30分、もし空いていれば手続きに30分もかからないだろう。待ち時間に読めそうな本や聴けそうな音楽も今すぐ用意できるだろう。隣駅の支店には緑いろのハイファイな布地の椅子が何脚も並んでいるからむしろ充実した午後の時間になるだろう。

このタスクが自分の中のいつもの〈狭間〉へ入ってしまった。よし今日行っとこう、30分で終わるのだ、と思っても、いざ動こうとすると心身が固まってしまい、どうしても動けない。「めんどくさい」「ダルい」といった感情をひどくねばっこく悲痛にブーストした感じ、と言えばいいだろうか?通帳を取り出すだけでも、山一つ動かすような覚悟と決意が必要になる。

夕どきのじめじめした部屋で途方に暮れてしまった。ややこしい作業も、大掃除も、他のことはできるんだけどな。〈狭間〉に入った小さなタスクだけがどうしてもだめだ。昔、ヨナヴォスカードの年会費550円を解約する為に一瞬で終わる電話手続きを3年寝かした時以来の手強さだ、、

まだ動けない。仕方無いのでSubバンクに預けてあった貯金を全額下ろして、棚にしまった封筒から現金を一枚ずつ財布へ移して生活している。おそらく今年はクレジットカード無しで過ごす事になるだろう。

まだ手元にはけっこう現金がある。今日から一日二食にして、毎日飲んでる〈菊水〉を〈大五郎〉にダウングレードすれば、まだ3ヶ月は暮らせる。まあこのサヴァイヴァル感も良いかな、と思ってます。

陽だまりの事務

昨日はめずらしく、会社でいっとき憩いの時間を過ごした。ランチタイムを終えた2時。3階のミーティングルームで、おれは上司の峯脇さんと来週の「新事務要領会議」の資料を眺めている。峯脇さんはチームではゆいいつ話ができる、もの腰のやわらかい小柄な男性だ。いつも滝沢帆布の灰色のトートバッグをたずさえて始業時間ギリギリにオフィスへやってくる。

うす緑色の厳しい、ところどころのアールが歪んでしまっているいかにも全時代的なブラインドから冬の光がたっぷりと入ってきて、フロアには明るい霧のような空気が漂っていた。

「ここ〈来年度のチームはさらに領域横断的に社内Personal Transformarionを加速させていく〉で良いと思うかな?沖田くん」

「そお、ですねー、まあ、私なんかは、いいと、思いますけどね!あとは鮭松さん次第ではないでしょうか!キリッ」

このPDFファイルにはなんの意味もない。一応「準備進捗の精査」ということになっているのだが、その厳かさな響きとは対極にあるゆるやかな午後のブレイクタイムである。峯脇さんも真剣な表情をうかべてはいるが、この明るい会議室で適当に無駄なタスクにぶらさがっておこうというトーンが垣間見えて本当に助かった。

「しかし〈横断的〉というのはなかなか硬質な響きがあるね?横に向かって言葉の粒がサーっと広がっていくような動きが美しいね沖田くん」

「確かにそう思います。私も。同じ意味でも〈クロスオーヴァー〉だと少し気取った軽い響きになってしまいますし、漢字三文字という無駄のない重心を感じさせるのも好きです」

書かれた言葉を一つずつ取り出して、そのフォルムを丁寧に考察していくのだった。窓の外にはJRノ線路を挟んだ向こうに緑のしたたる丘が見えた。

—こんなチョイスするなんて意味わかんないですっー軽く舌打ちしてモニタを睨みつける鮭松の姿が峯脇さんの頭の中にもくろく煙だしているはず。

横断的に行きましょう!!部署の垣根も取っ払ってしまいましょう!!

もうすぐ15時。ここでもうしばらく時間稼ぎをしたら退勤だ。毎週金曜の夜にむさぼり食うバカ豚麺のスープに漲るまぶしい油の粒が輝きがちらつき始める。

おれはいそいそと、さらになめらかに会議資料を読み進めて行った。

LILAC IPA DISTORTED

最寄駅から10分ほど歩いたエリア。大通り沿いに大型スーパーやパチンコ屋なんかがある昔ながらの空気を感じる一角にひっそりと構えた酒屋があることは前から知っていた。

《大川酒店》色褪せたのれんがバサバサと風に揺れている。いかにも酒屋然としたその見た目に反して、店内の現代的で洗練された様子に驚いた。いかめしい木製の棚に混じってりりしいアルミのケースや薄い紫色のしゅっとした冷蔵庫が林立している。

ビール類の充実。Tangerine ExpressやGigantic Crystal Ale、Tymec Orange Ciderまである。そして見たことのない謎めいたパッケージの一本が片隅にーー(ライラックの咲き乱れる丘でやつれたポロシャツの男がのたうちまわっている)

天井の木目の模様、のれん、伝統的な酒屋の骨格のなかのラインナップに不思議な清潔を感じた。さっぱりと磨き込まれた棚やガラスや扉に、店主の毎日の執拗な清掃ルーティンが見え隠れするもの好きだった。

そして店の奥の方は創業からそのままのうす暗さと埃っぽさで、春先に暴れ狂う松がえがかれた日本酒、無骨な取っ手のついたガソリンタイプの焼酎など酒屋らしい品もしっかり揃っていた。ここは「燃料」のコーナーだ。

おれは最後は大五郎に沈むと決めている。10Lを一気に飲み干して春の公園で樹液にまみれて地面へ崩れ落ちるのだ。

おれは見たことのないルクセンブルクのHazy IPAを買って、重低音の響きを含ませて「しゃす」と一言挨拶をすると、いそいそと破れたリュックに詰め込んだのだった。

おれはまだかろうじて明るいところでのたうちまわっている。