ジュレに結晶するおれ、鍋の林檎

都内へ出る機会があったので、久しぶりに神保町の〈片桐家〉へ行ってきた。

この日は35℃の馬鹿げた猛暑だった。おれは日差しよけの大きな黒いハットを被り、歩くたびに上下するハットにちらつく街の風景を眺めた。コンクリートやビルに打ち込まれた鋼鉄にたまった熱にとおくの景色が揺れている。ふつうに気持ちが悪くなる。汗をだらだら流しながらなんとか片桐家までたどりつくと、建てつけの悪いドアをスライドさせた。

まず体へ吹き付けてきたのはひややかな冷気ではなく、猛烈な風だった。4畳ほどの店内ではふたつの扇風機が壊れそうなほどの勢いで回っていて、ただひたすらに風が渦巻いていたのだ。しかし異常にこもった熱気は流れるのでなんとか座っていられる程度ではあった。おれの横の席には吹き降ろす風が直撃して、飛ばされそうになったおしぼりが険しい海風へ向かう戦旗のように勇ましくはためいている。店長も汗だくだ。客はこの暑さの中を歩いてきてぐったりとしている。そして全員うつろな食欲をみなぎらせている。

目当ては期間限定のオマール海老の冷やしそばである。

厨房の壁には、赤や黄のカラフルなペンを使って〈オマール海老の冷やしそば*1!〉と殴り書きされた紙が貼り付けてある。大きく掲げられたメニュー名の下には異常に稚拙なタッチで描かれた店主の似顔絵が書かれている(するどい目つき、大きく突き出た腹、豪快な笑い顔)。そんな陽気なイラストとはおよそ似つかない店内の厳粛な空気だった。店主は丼へにらみを効かせて、私語はおろかスマホへ目を落とすのもはばかられる程の緊張感がただよっている。おれも、横の席でもうあきらめたような薄らわらいをうかべている男も、このクソ猛暑の中で、全てを託すようにして冷やしそばの完成を待っている。

スープの入った大鍋。煮えたつスープの湯気の中でいつも蛇口から細く冷水が注がれ続けていることに不思議な静けさを感じるのだ。スープの表面にはザクっと短冊切りにされた葱や鶏ガラ、そこへ切り目の入った赤い林檎が丸ごと一つ浮かんでいる。もう一つの大鍋へ麺を放りこんで茹でている間、店主が冷蔵庫を開けると、あたりへ一気に冷気があふれる。そして、奥の方からガサガサ荒っぽく取り出したプラ容器の中に、まばゆい輝きを放つジュレが揺れていた。凝縮したオマール海老のエキスを力強いダシ感を備えたスープを割って、ブイヨンの要領で冷やし固めたものだろう、茹で上がっていく麺の上から注ぎかけられていくジュレ。おれは胸の高鳴りを感じながら、そのまぶしさになかば呆れてしまって、ただじっと丼を眺めていた。

気付いた時、おれはすがるように麺にかぶりついていた。たっぷり染み出した野菜と果実の甘みと濃厚なオマール海老の旨味が結晶したジュレを麺に絡ませて一気にすすり込む。氷のように冷ややかなジュレをむさぼり食う。そして焦がしネギとシャキシャキの水菜を噛みしめる。おれは一切のポーズを入れず夢中で食べ進めてあふれ出す光の洪水の中へともぐり込んで行った。もう暑さのことなどどうでもよくなっていたーー


「ありがとうございましたぁぁ!!」
おれは店主への敬意を込めてそう叫ぶと、ドアを左へと押し開けて、また悪夢のように熱気のかたまりが揺れている午後の街の中へと出て行った。

*1: °ω°